
まさに阿鼻叫喚、それは地獄絵図そのものだった。
ファルコン自由解放同盟がシーガイア王朝首都アストレーゼの城壁を突破してから、1時間も経たぬうちに城下町は火の海と化していた。
逃げまどう市民たち。あちらこちらで怒号と悲鳴の声が起こり、剣と剣がぶつかりあう激しい音が各地から聞こえてくる。
血しぶきと肉片が飛び散り合い、助けを求める声と断末魔の絶叫は途切れることがない。
男も、女も、老人も、赤ん坊の悲鳴さえも聞こえた。
リューベンが最も懸念していた最悪の事態が、現実のものとなってしまったのである。
ファルコン自由解放同盟軍とシーガイア王朝軍の激突は、民間人も騎士も兵士も関係ない、もはや誰にも止められない大混戦の様相を呈してしていた。
ゴルベリアス・イレードの居城、ヴァレンタイム城は、未だ損害を受けていないものの反乱軍が攻め入ってくるのは時間の問題だった。
ゴルベリアスは、城の中でも天守ともいえる、ひときわ高い石造の塔に位置する、王の間の窓から城下町アストレーゼを見下ろしていた。彼自身も、決戦にむけてシーガイア王朝の王にふさわしい、優美な彫刻が施された黄金の鎧を着込み、漆黒のマントを身に着けていた。
ここからなら、首都アストレーゼのほぼ全景が見渡せる造りになっている。
しかし、それだけに悲惨だった。
王の間に、照明など不要だった。窓から差し込んでくる城下の炎の紅色が、部屋全体を煌々(こうこう)と染めあげてくれていたのだから。
ゴルベリアスは、窓の手すりに両手をつき、その惨状を深紅の瞳に焼き付けるかのように、両目を見開き続けていた。
「見よ、ヴェスター。この有様を。やはり市民だけは無理矢理にでも反乱軍に投降させておくべきだった。しかし、彼ら市民は、この絶対的に不利な状況の中においても、なお最後まで余に忠誠を誓い、ザフネス教の敬虔なる教徒として最後まで首都アストレーゼにとどまると言い張った。――その結果がこのザマだ。余は、今日まで苦境に耐え忍んできてくれた民や兵士が次々と無惨に殺されていくのを黙って見ている事しかできない……余には、シーガイア王朝の王たる資格などないも同然だな」
ゴルベリアスのあまりの自嘲ぶりに、それを背後で聞いていたシーガイア神聖騎士団の団長である、聖騎士ヴェスター・ザウドニックは、眉をひそめ、黙することしかできなかった。
肩まで伸ばした艶(つや)のある銀髪に濃いブルーの瞳、均整のとれた顔立ちは、ヴェスターがザフネス教では『神の子』とされる、純粋なディープ・ウォルス人であることを示していた。全身を覆う豪華な彫刻を施された白銀の鎧と、シーガイア王朝の紋章である『赤の獅子』を染め抜かれた純白のマントが、彼の聖騎士(パラディン)としての身分の高さを証明している。
しかし、その端正な顔立ちも、今は祖国の大崩壊を目の当たりにして醜くひきつっていた。
よく見てみると、ゴルベリアスの拳も血がにじむかと思えるほど固く握り締められ、わなわなと震えている。
その抑揚のない口調とは裏腹に、心底ゴルベリアスは君主として不甲斐ない自分自身に対して憤っていることが、ヴェスターには容易に推測できた。長年ゴルベリアスの右腕として仕えてきたヴェスターの自負心が思わせることである。
「……陛下、恐れながら戦況はご覧の通り圧倒的に我らが劣勢に立たされております。今まで首都アストレーゼに温存してきたシーガイア神聖騎士団の精鋭騎馬部隊は、私の副官であるキュナ・ユードに指揮を執らせてありますが、反乱軍の総兵力は10万を超えるともいいます。対してこちらの総兵力は1万にも満ちません。遺憾ながら、いかにシーガイア神聖騎士団を投入したところで、大した時間をかせぐこともできますまい……」
そう進言するヴェスター自身も断腸の思いだった。
ヴェスター・ザウドニックは、シーガイア王朝の母国、リドル神聖国本国でも最高の騎士の一人と認められた聖騎士(パラディン)の一人であった。
聖騎士はマグスに次ぐ権力を持ち、あらゆる政治的束縛、手続、規制を受けない特権を与えられており、巨大な宗教国家リドル神聖国内でもヴェスターを含め24人しか存在しない。
その中でもザウドニック家は、代々イレード家に仕える由緒正しき聖騎士の家柄であった。
栄誉あるザウドニック家当主として、また、リドル神聖国の正統なる聖騎士(パラディン)として、彼は自らを誇りに思い、その称号に恥じぬよう今日まで武芸に、学問に、己を磨き続けてきた。
だが、今となっては、自分のその身分が恨めしくて仕方がなかった。
本来ならば、聖騎士であるヴェスター自らが城下で前線での指揮を執らなければならない立場なのだから。
市民や部下達がむざむざと殺されていくのを、ただ見ている事しかできないのは、シーガイア王朝が誇る聖騎士、ヴェスターにとって屈辱以外の何物でもなかった。
しかし、彼にはゴルベリアスより城下の守備とは違った重大な任務を与えられていた。
シオン王子の亡命の手助けである。
ゴルベリアスは、息子であるシオンをリドル神聖国本国に亡命させるため、その守護の任をヴェスターに与えたのであった。
王直々の勅命とあらば、逆らうことは出来ない。それに、シオン王子の亡命を手助けすることはシーガイア王朝とイレード王家の命運に関わる重要な任務なのである。
ヴェスターは自分にそう言い聞かせ、努めて冷静に徹した。
今は自分に与えられた責務を全力で果たさねばならぬと……。
「陛下、もはや一刻の猶予もございません。城下町の防御陣を突破され、反乱軍がこのヴァレンタイム城に攻め入るのも、せいぜいあと1時間ほどが限界かと。ご決断を!」
ヴェスターの言葉を受け、ゴルベリアスはかすかに頷いた。
取り憑かれたように城下町の惨状を凝視していたゴルベリアスは、我に返ったように勢いよく漆黒のマントをひるがえして窓際から身を離し、後ろに控えていた従者に向かって叫んだ。
「シオンとメイマーを呼べっ!」
「ハッ!」
従者にそう命じた後、ゴルベリアスは、改めて王の間の床の中心に描かれた魔法陣を見やった。
転送の魔法陣(ゲート)。
今まで、何百回、いや何千回、この魔法陣(ゲート)を使って『転移の術』を施し、前線にいる兵士や物資の輸送に使った事だろう。
その度に、ゴルベリアス自身の精神力は削られ、特に3ヶ月前の長期戦となった反乱軍とゲッセマネの砦の戦いでは、あまりに『転移の術』を乱用し過ぎたせいで、今となっては彼自身の頭髪は真っ白となり、頬はげっそりとやつれ、衰弱しきっていた。
だが、まだ今の自分に残された魔法力なら、充分にシオンをはじめとした亡命者達をアンゼルの砦まで無事に転送できるだろう……。
ゴルベリアスは、自らに残された僅かな魔法力を推し量りながら、そう判断した。
二人を連れてきた従者は、任務を終えると同時に、ゴルベリアスに一礼し、すみやかに王の間から退出した。
「父上……」
王の間に、従者に連れられたシオンの声が響いた。
シーガイア王族の正装である、紺色の詰襟の服に、黒のマントを金の肩章でとめている。
その傍らにはまだ4、5歳ほどの可憐な装飾が施された深紅のドレスに身を包んだ少女の姿もあった。
聖騎士ヴェスターの実の娘で、名をメイマー・ザウドニックという。
肩まで伸びたウェーブのかかった銀髪。そして、透き通るように真っ白な肌。人一倍大きな瞳は、見る者をぞくりとさせるほど可憐で、澄み切っている。
シオンは、すでに覚悟を決めているようであった。
凛とした表情で、父ゴルベリアスの方へゆっくりと歩み寄った。
「もう二度と会うこともあるまい。シオン――お前の為すべき事はわかっておるな?」
「はい。必ずや使命を全うしてみせます。父上のなさろうとしていることを、決して無駄にはいたしません!」
ゴルベリアスもシオンも、お互いの赤い瞳をじっと見つめ合うだけで、多くを語らなかった。
そこには言葉も必要としない、親子の無限の信頼が込められていた。
「へいか、シオンでんかは私がいのちをかけてもお守りいたしますわ!だって、私はシーガイアの聖騎士、お父様の娘なんですもの!」
可憐な少女メイマーは、幼さゆえ無邪気とも言える態度で言った。
「メイマー!陛下の御前で勝手に口を出すなと何度言えばわかるのだ!」
ヴェスターの叱責が飛び、メイマーはしゅんとなった。
「よい、ヴェスター。――ハハハ、そうだな、メイマー。実に心強い事だ。確かにお前は偉大なる巫女王(ふじょうおう)ゼノビアより認められた、誇り高きシーガイア王朝の聖騎士だ。お前は父のように強く、そして優しい聖騎士になれる素養を確かに持っている。今はまだ無理だろうが、シオンを守ってやっておくれ」
ゴルベリアスは膝を折り、メイマーと同じ目線で彼女の頭を撫でつつ柔らかな口調でそう言った。
「はいっ!ありがとうございますっ!へいか!」
ゴルベリアスの優しい言葉に、それまで沈んでいたメイマーは花が開くように微笑んだ。
その時、ズンッという轟音とともに王の間全体が激しい揺れに襲われた。相当の激震だったらしく、天井の埃がゴルベリアスの足元にパラパラと落ちた。
同時に王の間の木製の大扉がバンッという音とともに開かれ、全身に傷を負った兵が足を引きずるようにして声高く叫んだ。
「陛下っ!シオン殿下っ!一刻も早くお逃げください!最終防衛線が突破されましたッ!」
「何だとッ!?するとシーガイア神聖騎士団はッ!?」
ヴェスターは負傷した兵に駆け寄り、その身を支えた。兵士は息も絶え絶えの様子である。
「はい……。ヴェスター様の副官キュナ・ユード殿は戦死なされ、神聖騎士団は全滅。勢いに乗った反乱軍は、このヴァレンタイム城の城門を破壊するため攻城兵器を持ち出してきました。今は死力を尽くして近衛兵達が食い止めていますが、城門が破壊されるのも時間の問題です……陛下!どうか――」
前線の様子を伝えるべく、必死の思いで敵の追撃を振り切ってきたのだろう。
言い終わるなり、兵士はドッと両腕を床につき、大量の血を吐いてそのまま絶命した。
「……急ぐぞ、3人とも。魔法陣(ゲート)の中心へ立て。転送を開始する」
ゴルベリアスは、せめて危機を知らせてくれた兵士だけにでも冥福の祈りを捧げたかったが、そのような時間はもうない。
反乱軍が目と鼻の先まで迫っているのだ。
シオン王子、聖騎士ヴェスター、その娘メイマーの3人は魔法陣(ゲート)の中心に立った。
しかし、何を思ったか、だしぬけにヴェスターは魔方陣(ゲート)を離れゴルベリアスの方に向かって行き、片膝を折って懇願した。
「陛下、どうしても……どうしても、我らと共に来ては下さいませぬか?陛下がいなければ我らシーガイアの者達は……」
「何度も言ったはずだ、ヴェスター。余は逃げも隠れもせん。余はシーガイア王朝の王であり、巫女王ゼノビアの勅命を受けてこのファルコン半島を統治してきた。その責任を放棄するという事は、畏れ多くも巫女王ゼノビアと聖神ザフネスに反逆することである。余は、天から与えられたマグスとしての使命を全うせねばならん」
“やはりか……”
ヴェスターは落胆の気持ちを隠せなかった。
既にこれまでの数ヶ月間、幾度となく亡命を勧めたが、ゴルベリアスに拒否されてきたのだ。
その気になれば、ゴルベリアス自身も『転移の術』で共に亡命できるはずなのだ。その事は、マグスという存在にも、魔法にも非常に造詣が深いヴェスターも知っていた。
だが、ゴルベリアス自身は頑として自分が亡命する事だけは拒み続けてきたのである。
「それよりも、ヴェスター、今は自分たちの事だけを考えろ。いいか?これから余が『転移の術』によって、お前達を国境付近のアンゼルの砦まで転送させる。アンゼルの砦には、先に神聖騎士団の精鋭10名と亡命に必要な物資を先に転送してある。貴公は彼らの指揮を執り、シオンとメイマーを守りつつ、リドル神聖国領のシーガイア公国に逃れるのだ。国境を過ぎれば、反乱軍も手出しはできまい」
これまで何度も打ち合わせてきた手順を、ゴルベリアスはヴェスターに念を押した。
「……了解いたしました、陛下。この命を賭けても、シオン殿下と娘を本国に送り届けてみせます」
「うむ。頼んだぞ、聖騎士ヴェスター」
ヴェスターは、立ち上がって踵を返し、再び魔法陣(ゲート)の中心へと戻っていった。
ゴルベリアスは、一瞬目を細め、精神を集中する準備に入ると同時に、魔方陣(ゲート)の方に向かってバッと両腕を突き出した。
しばらくすると、空間がゆらぎはじめ、マグスではないヴェスターやメイマーでも、全身の毛が総毛立つのが分かったほどだ。魔法陣(ゲート)の文様が神秘的な橙色の光を放ち始め、どこからともなく一陣の風が激しく舞った。
そして、精神の集中が最高潮に達したゴルベリアスは、光り輝く両手から魔法陣(ゲート)に気を放った。
その刹那、ビシュンッという鋭く風を切るような音とともに三人の姿は跡形もなく魔方陣(ゲート)から消え去った。
全てが終わった後、王の間には、窓から響く城下町の喧騒の音だけが響いていた。
荒涼とした王の間には、ゴルベリアスただ一人がたたずんでいた。
突き出していた両腕をだらりとおろしたゴルベリアスは、天井を仰ぎ、
「頼んだぞ、シオンよ……」
そう静かに呟いたあと、ゴルベリアスは玉座に向かい、身を沈めるように静かに腰をおろした。