
深夜。エッセネ。
この時刻ともなると、実質上エッセネを統治しており、公務で忙しいはずのゼノラーの屋敷からも灯が消え、わずかにいる使用人達もリューベンも眠りについていた。
しかし、当主であるゼノラーの執務室の窓からだけはうっすらと灯りが差し込み、未だ眠らない者もいた。
ゼノラーとヴァハである。
執務室の中では、机の椅子に腰をかけ書類に目を通しているゼノラーと、やや緊張した面持ちのヴァハの立ちつくした姿があった。
「結構だヴァハ。ではクーデター開始は明後日の夜。組織を通してゼコビィ・ミラン、メイマー・ザウドニックへの連絡も抜かりないと言うことだな?」
ゼノラーは書類から目を離して、ヴァハに最終的な確認をとった。
「はい。我々は明後日の夜、エッセネ太守であるダッハーマ・グロスを始末します。そのかたわらエッセネ各地に点在している国土監査局の制圧にあたります。最大の難所である国土監査局本部は、ゼコビィ・ミラン男爵にエッセネ中に潜伏させてある組織の一斉蜂起を指揮させ、シーガイア残党を取りまとめている聖騎士メイマー・ザウドニックの一団と共にファージの国土監視局本部を奇襲、エッセネにおける公安委員会の拠点を無力化させます。ミラン男爵によれば、国土監査局本部に対抗するための武器や統制の準備も抜かりなく、我々が合流する頃にはエッセネは我々が完全占拠できる手筈となっております」
「フン、エッセネの腑抜けきった国土監査局本部など、我々がじかに手を下すこともないからな。ミランとメイマーがうまくやってくれるさ」
ゼコビィ・ミラン男爵とは、ヴァハと同じく、かつては新生ファルコン共和国の評議会にも顔が利くほどの貴族だったが、リューベン王のやり方に異を唱えたために思想犯としての烙印を押され、この廃都エッセネに追放になった男である。
同じく追放処分を受けたヴァハやゼノラーと境遇が似ているせいか、ゼノラーの思想にかなりの忠誠を誓っており、またゼノラーも彼にはヴァハと同等の信頼を置いているほどである。でなければ、明日のクーデターの要とも言うべき『国土監査局本部の占拠』を彼に任せたりはしないだろう。
一方で、メイマー・ザウドニックと呼ばれている聖騎士は、かつてシーガイア王朝で絶対的な権力を持っていた聖騎士ヴェスター・ザウドニックの娘で、現在はエッセネに住むシーガイア残党やザフネス教信者に崇め奉られている騎士である。
20年前、シーガイア王朝が滅亡する際にリドル神聖国に亡命を図ろうとしたところをファルコン自由解放同盟のゲド・カルザスの強襲を受け失敗。以後、ベストン・クリューガーという生き残りの騎士から武芸と指揮官としての教育を受けつつ、ほぼ20年に渡る逃亡生活をファルコン半島中で続けていたという経歴の女性である。ゼノラーはそこに目をつけ、かつて聖騎士だったヴェスター・ザウドニックの娘であるという血筋を利用し、なかなか言うことを聞かず手を焼いていたエッセネのシーガイア残党の指揮を任せようと、メイマーに救いの手を差し伸べたのである。
ミラン男爵や聖騎士メイマー以外にも、ゼノラーの熱心な隠れシンパの数は多く、エッセネはおろか、その影響はルーヴェルラント地方全域に渡るほどである。
天性、というべきか、ゼノラーには相手が何を欲していて自分の味方になるのか直感で分っているような節があった。そうでなくては、ここまで広大な人脈と人望は集められない。
その事についてはヴァハは何の心配もしていないし、これからもゼノラーのやり方に従おうと思っているのだが、ひとつだけ、どうしても言っておかなければならないことがあった。
「……ゼノラー王子、実は今朝のファージとの事ですが……リューベンはあのような――」
そこまでヴァハが言いかけると、ゼノラーは手のひらをヴァハの眼前に突き出し、まるで言葉を遮断させるような強引さで彼女の言葉を中断させた。
「皆まで言わなくてもわかっている。ただ、ついファージ相手だと自分を抑えきれなくてな。反省はしている」
しかし、そう言いながらもゼノラーは無意識か意識的にかヴァハから視線を外していた。
「ご賢察です。リューベンは基本的に温厚な性格な上、無益な殺生を嫌いますので、あまり刺激はしないほうがよいかと」
そのヴァハの言葉にゼノラーは一瞬眉をひそめたかと思うと、ふっと溜息をつきドスッと音を立てて椅子に倒れ込むようにした。
「全く、面倒な話だ。……しかし、まいったな。奴は過去から来たといえ、中身は親父(おやじ)そのものだ。いつ俺に反旗を翻すともわからん」
うっとおしそうに言うゼノラーを目の前にしたヴァハは、一歩前に出て胸に手を当て、必死にリューベンの弁明をはじめた。
「その点については、私が根回しをいたします。リューベンはこの時代に来てまだ間もないですし、今の時代のファルコン半島がどうなっているかの知識も皆無です。身近にいる我々に同調するしか道がありません。その過程で、正義が我らにあることをよく判ってもらう必要があるのです」
「確かに。……それより、どうやらリューベンはあまり俺のことを好ましく思ってないようだな?」
「それは……」
やはりゼノラーは気付いていたか、と図星を突かれた思いで、ヴァハは二の句が継げなかった。
「遠慮することはない、ヴァハ。親父――リューベンの中では、やはり俺はできそこないであり、それは過去だろうと今だろうと変わらんらしい。……フッ、どこまでいっても俺と親父は相容れぬ関係らしいな」
「王子……」
自嘲気味に、少しかすれた笑い声と共に自分を嘲ってみせるゼノラーであったが、その彼の姿はそれだけではなくもっと複雑な感情を内包しているようにヴァハには映った。哀愁、といっても足りない。後悔といっても足りない。虚無感とももちろん違う。ヴァハは、長い間ゼノラーの副官として務めてきたが、かけるべき言葉がとっさに出すことの出来ない自分を情けなく思うのだった。
が、ゼノラーがそんな表情を覗かせたのは一瞬で、すぐにまたいつもの厳格な表情に戻り、話を切り出していた。
「わかっている。リューベンには、せいぜい気に入られるよう努力はするつもりだ。が、うまくいくものだろうか……?」
「私にお任せください。ゼノラー王子の成されようとしていることは尊(とうと)いことです。それにリューベンは、かつて私と共に戦った仲間。もし、20年も過去からやってきたというのであれば、彼は若いですし、説得の余地は十分あります。相性の合う合わないで責任を放棄したりするような独善に陥ってない頃の彼ならば、いずれゼノラー王子の真の理想は理解されることでありましょう。ですが、最初はゼノラー王子にも自重していただく必要もあります」
「そういうものか?」
「はい。若き頃のリューベンは、王子と違ってまだこの世のにあるおびただしい数の真の残酷さに打ちのめされた経験がございません。しかし、気になるのが……」
それまで雄弁だったヴァハが突然言葉を切ったので、ゼノラーは続きをうながすように顎をしゃくった。
「なんだ?」
「もし……もし過去から来たリューベンを懐柔し、思想を変え、無事過去に帰還したといたしましょう。すると、今の私たちの世界はどうなるのでしょうか?まったく違った歴史に塗り替えられてしまうのでしょうか?」
ヴァハは、若き日の本物のリューベンがこの時代に現れて、ずっと気になっていた根本的な疑問を投げかけた。
例えば、過去から来た若いリューベンがこの時代で死ぬ、またはこのまま永遠に過去に帰還しないのなら問題はない。過去が改変されて歴史が変る恐れがないからだ。
しかし、リューベンが、この一見無謀とも思えるクーデターに参加する決意を固めた最大の動機は、シオン・イレード王子に会ってマグスの秘術で元の時代に帰してもらうことなのである。
もしシオン王子の力によって、リューベンが元の20年前の時代に帰還できたとしたら、当然、過去に帰還したリューベンはこれからのファルコン半島の未来がどうなるか知っているし、この腐り果てた新生ファルコン共和国を目にした影響から、政治に対する思想もだいぶ違ったものになっているだろう。それによって未来(ヴァハ達にとっては現代だが)の歴史が大幅に変わってしまう可能性は大である。下手をすれば、歴史が変りすぎたため、ヴァハ達が存在自体することさえ危うくなるのではないか?と彼女は思うのである。
これからクーデターを開始し、いくらリューベンの力を借りて現在の新生ファルコン共和国を討ち倒すのに成功したとしても、リューベンが20年前の時代に帰還した途端、歴史が改変され、自分も、民衆も、それどころかこのヴァハ達が住んでいる宇宙全体さえもフッとかき消すように『なかったこと』にされてしまっては意味がない。ヴァハ達にとっては、例え地獄のような世界でも、この歴史こそが『真実の歴史』だからだ。
だが、ゼノラーはヴァハと違い、時の因果律について少々知識があるようで、ゆっくりと口を開いた。
「その点については俺はマグスではないから、確かなことはわからんが……ただ、時間の因果律については、以前、文献で多少読んだことがある。東方の大国アレクサンドリア帝国では、時間学、次元学といった大変特殊な学問も研究されているらしい。俺がまだクルトニアの王都アクロポリスにいたころ、輸入された書物で読みかじった知識にすぎないが……それによると『平行世界(パラレルワールド)』という考え方があるそうだ。この宇宙を支えている時間軸(歴史)は唯一無二の絶対的な一本道ではなく、木の枝のように絶えず無限に枝分かれしており、我々の住んでいる宇宙もその枝の中の一本に過ぎないということだ。極端な例を言えば、20年前の時点でファルコン自由解放同盟はシーガイア王朝に大敗北してしまい、20年経った現在においてもまだファルコン半島はシーガイア王朝の支配下にあるという宇宙も、別の可能性世界として存在するという考え方だ。
この説が正しいとすると、リューベンがゴルベリアス・イレードの呪いを受け、過去から今の時代にやってきた『その瞬間』から、我々の住む宇宙と、奴がやってきた時代の宇宙は枝分かれした、ということになる。なぜなら仮に時間の流れというものが唯一絶対の一本道だとすれば、今、王都アクロポリスにいる俺の父リューベン王は既に過去と未来を往復していることになるし、息子である俺にも会っていたことになる。しかし、そんな話は親父から聞いたこともなくば、そんな気配もない。
シオン王子は確か『20年前の時点でゴルベリアスはリューベンの魂を二つに分け、そのひとつを未来に送った』と俺達に言っていたな?あれは実は『並行世界(パラレルワールド)』の事を言っていたんじゃないのか?げんに、今、この時代には『若いリューベン』と『年老いたリューベン王』が二人存在している。全く同じ時代に、全く同じ人間が存在する……普通ではあり得ないことだが、ゴルベリアスは、魔法を使って無限に分岐するパラレルワールドの中のひとつからリューベンをこの時代によこした、とも考えられる。それをシオン王子はザフネス教風に『魂を二つに分けた』などと宗教がかった言い方をしただけではないかと俺は考えてるがな。
時間の流れと宇宙は、絶えず無限の枝分かれをして成り立っているというアレクサンドリアの説の方が当たっているのかもしれんな?」
「それは……興味深い話ですね」
アレクサンドリア帝国は、特定の宗教や倫理観の制約を受けず、かなり先進的な学問が許されている大帝国である。かの国で研究されている説なら、信憑性は高いとヴァハには思えた。
ゼノラーはさらに付け加えた。
「――ちなみにな、アレクサンドリア帝国の時間学では、こういった現象を何タイプかに分類している。
A:過去を干渉すると未来は変わる。
B:過去を干渉しても未来は変わらない。
C:過去に干渉して変えられる未来と変えられない未来がある。(時間の復元力が働くなど)
D:過去を変えても、それだけ並行世界(パラレルワールド)の数が増えるだけでお互いに干渉しない
ヴァハはAの『過去を干渉すると未来は変ってしまう』場合を危惧しているわけだろう?
しかし、これはアレクサンドリアの文献をよく読んでみると大部分の学者が否定しているんだ。
例えば過去へ遡って自分の誕生前の両親を殺害するとする。両親は自分を生む前に殺害されてしまうので自分は「生まれていなかった」事になる。自分が生まれていないならば両親が殺害される理由がそもそもなくなる…その場合、両親を殺害した瞬間、自分は消える。という説だ。
つまり、永遠に堂々巡りで、果てがないということで、学者達は不可能だとしてこの説に対しては否定的なんだな。
考えてもみろ、もしリューベンが元の時代に帰還することに成功して、Aの『過去を干渉すると未来は変わる説』をとるなら、そもそもの最初から我々の存在する宇宙自体がなかったことになる。まあ、我々のクーデターが失敗した場合には別だがな。しかし現にこの我々の住む宇宙にはなんの変化もなく、同じ日常が続いている。少なくともAの可能性は、リューベンがこの時代で死ぬか、永遠に元の時代に帰れない限り、ありえないわけだ。
つまり、あとのBとCとDの説なら可能性として考えられるが、ゴルベリアスが何を意図してリューベンをこの時代に送り込んだのかわからない限り、どの説が本当なのか皆目見当もつかんな。
ただ、シオン王子の『魂を二つに分けた』という言葉から推測するに、俺はDの『平行世界(パラレルワールド)』の説が最も近いんじゃないかと考えているだけの話でな」
時間の因果律について無知なヴァハは、ただただ頷いていた。確かに、ゼノラーの言うとおりなら、『リューベンによって過去が改変されて、自分たちの歴史が抹消される』という可能性は極めて低い。
「だからな、『平行世界(パラレルワールド)』の説にのっとると、我々がリューベンの思想をいくら変えたりして過去に送り戻したとしても、我々の宇宙の歴史には何の影響もないということになる。もちろん、リューベンがもといた時代の宇宙では歴史が大幅に変ってしまうだろう。だが、極端な話、リューベンの住んでいた時代の宇宙が破滅に突き進もうと平和な楽園になろうと、我々にはまるで関係ないことなのだよ。重要なのは、今、この屋敷に若き日のリューベンがいて、それが打倒新生ファルコン共和国の鍵になるかもしれんという、その事だけだ。我々の宇宙の未来は、我々が切り開いていくしかあるまい?そのためなら、何でも利用してやる」
ゼノラーはそうピシャリと言ってのけた。
だが、ヴァハにはまだ心の中にあるわだかまりが完全には拭えきれなかった。『時』などという、誰にもとらえようもない人智を越えたものを、こうも簡単に説明してしまって、納得するには、いくらアレクサンドリア帝国の学問を例に出しても早急だと感じてしまうのだ。
「しかし、ゼノラー王子。その学問や説はアレクサンドリア帝国独自のものでありましょう?もちろん我々の大義を成すためにはその説が最も都合良く、事実我々の住む宇宙には何の変化もないのですから信憑性は高いと思えますが、この世界には我々の人智を越えた現象が存在するのも確かです。ゴルベリアスというマグスが、いかような魔法をもちいてリューベンをこの時代に送り込んだのかさえ説明できないのが今の私達なのですから、リューベンを使っての時間や歴史に関する改変には慎重に慎重を重ねたほうが賢明だと私は考えますが?なにより、20年前のリューベンをこの時代に送り込んだのは、マグスの持つ魔法という現実があるのですから」
ヴァハは思ったことをずばり率直に進言した。だが、ゼノラーにはわかってもらえるという確信があった。
ゼノラーはしばし腕組みをし、顔をしかめて思索を巡らせているようだったが、
「……それもそうだな。確かに、お前の言うとおり不安材料はできるだけ払拭し、ハッキリさせておける事はハッキリさせておくのが後顧の憂いを断つことにもつながる。俺はどうやらクーデターを急ぐあまりに、少し冷静さを失っていたようだな……。わかった、ヴァハ。お前の意見を取り入れよう。本来ならば、マグスであるシオン・イレード王子の意見を聞くのが一番なのだが、そうもいかんのが現状だし、のろのろしていると本国アクロポリスからファージが俺を捕らえにきてしまう。ここはクーデターを現状の計画のまま進めつつ、リドル神聖国の中でも最も我々と友好関係にあるグランス公国に、マグスの秘術に詳しい人物を派遣してもらうとしよう。その上で改めてリューベンの処遇を慎重に話し合うとしよう」
ゼノラーは、数年前からリドル神聖国5公国のひとつ、グランス公国と密約を取り交わし、様々な援助を受けていた。エッセネのような貧弱な都市国家がクーデターを成功させるには、周辺の田舎貴族達の力を結集しただけではとても不十分であった。しかし、当初はザフネス教の総本山であるリドル神聖国の力を借りるなどと、とんでもないことだとヴァハは猛反対をしたものであるが、グランス公国はリドル神聖国神都から最も離れている地理的理由から、ザフネス教の影響も弱いということもあり、ゼノラーはヴァハを説き伏せ、リドル神聖国の力を借りることにしているのだ。
「賢明な判断かと存じます、王子。――しかし、これまで我々が話し合った事は、エッセネの民衆には少々理解しにくい概念ではありませんか?」
確かに議論の中心が『時の改変について』なのだから、現実離れしすぎている上にやや難解である。
ゼノラーが組織しているクーデター軍は、周辺の田舎貴族などといったインテリも多いものの、大部分が平民かそれ以下の階層の者達で占められている。
今、ゼノラーがヴァハに聞かせた『時間の因果律と逆説』とか『可能性宇宙の存在』などといった知識は、あくまでゼノラーが博学であり、その知識を手に入れるための力もコネクションもあるという事にすぎない。
ましてや、現在の新生ファルコン共和国よりもはるかに進んだ技術力を持つアレクサンドリア帝国でさえ、『時間や次元に関する学問』は大変特殊なものだという。
明日の食べ物にも困っているエッセネの民衆達には、とてもではないが、たやすく受け入れられるものではないとヴァハは思うのだ。時計ですら普及してないのが、この廃都エッセネの現状なのだ。
「確かに、アレクサンドリア帝国の学問で、リューベンが過去から降臨したという説明や、時間の因果律を説明するのには少々無理があるのは俺も重々承知している。だがな、こういう時は考え方をちょっと変えてみるんだ」
「と、申しますと?」
「要はエッセネに住んでる者達の性質を利用させてもらうのさ。エッセネには、かつてのシーガイア王朝の残党やザフネス教の熱心な信者が大部分を占めている。かつてシーガイア王朝で信じられていたザフネス教の宗教哲学では、この自然界に存在するあるとあらゆる事象を巫女王ゼノビアや、天に位置されるという光の世界『パージ』、あるいはマグスの恩恵だとして、自然界の現象や科学になど目にもくれず無理な辻褄合わせばかりをしている、今から見れば全く馬鹿馬鹿しい事を大真面目でしていたそうだ。その本国であるリドル神聖国では現在はそういった考え方も随分影をひそめているらしいが、この廃都エッセネに取り残されたザフネス教を信じる者達は、20年前の宗教哲学が隆盛を誇った頃の時点で時が止まってしまっているんだよ。当然、根強いマグス信仰も残っている。彼らの心を掴むには、下手にアレクサンドリアの先進的な学問を引き合いに出すより、かつて偉大なマグスであったゴルベリアス・イレードの『奇跡』である若き日のリューベンの降臨を全面に押し出して、時間の因果律の全てを説明する方が遙かにたやすいと俺は考えるな」
「なるほど。それでは、アレクサンドリアの学問とザフネス教の宗教哲学をうまくミックスさせる必要がありますね?」
「その通りだ。しかし、シーガイアの残党達は『マグスの奇跡』の一言で片付くだろうが、我々に協力してくれているのはそういった輩ばかりではないというのも承知しておく必要があるがな」
「はい。シーガイア残党や、ザフネス教信者はいいとしても、組織の残りの半数は彼らに虐げられてきたバリア人やアヴェレスト人達や、単に共和国に対する反体制側の人物など様々な者達で構成されておりますものね。彼らにとっては、『マグスの奇跡』だけでは納得できない部分もあるかもしれません」
「……ン、そういったところだな。どちらにせよ、過去から来たリューベンを我々がどうこうしようと、今の俺たちが存在する世界には何ら影響はないということを最大限に強調せねばならんがな。彼らを納得させて、リューベンを偶像(アイドル)として利用せんことには蜂起もままならず、近いうちに俺は塩の砂漠に流刑になる運命だ。ためらっている余地はない」
「そうですね……時間は限られております。それに、エッセネの民衆や組織の連中は、すでにゼノラー王子の蜂起を今か今かと待ち望んでいます」
そのヴァハの言葉を受けて、ゼノラーはフッと笑ってみせた。
「ルーヴェルラント王国領の田舎貴族どもにも餌をばらまいてある。奴らもこのエッセネと同じか、それ以下の荒廃した領土を与えられた者達だ。金で操るのはたやすかろう……まあ、一番厄介なのがかつてのシーガイア貴族や騎士残党の生き残りだが」
「彼らにしてみても、ゼノラー王子がいなくなれば、新しい太守がエッセネに就任し、自分たちへの弾圧が今以上にひどくなることを知っているはずです。そこまで愚かだとは思えませんが?」
その言葉を受けて、ゼノラーは目を細めた。
「フム……しかしな、ヴァハ。狂信者の心理を甘く見ない方がいいぞ。まあ、その点では経験のあるお前の方が身にしみて知ってるかもしれんが……特にお前はバリア人だ。シーガイア王朝の亡霊どもからすれば、未だにお前は人類を堕落させる忌むべき人種なのだ。リューベンを使って、シーガイアの残党やザフネス教信者を利用するなら、お前は表に出ず、できるだけ目立たず動いてもらうようになるが――いや、それでも危ないかもしれん」
「承知しております。ですが、ご心配には及びません。自分の身は自分で守れます。私は王子の末席で力を尽くさせてもらう覚悟です」
ヴァハは改まった口調で背筋をぴんと伸ばし、ゼノラーに己の覚悟を伝えた。
「いい返事だ。さすが元十二神将の中で『炎の騎士』の異名をとっただけのことはある。この蜂起、必ずや成功させねばな。オリビアのためにもな……」
ゼノラーがそう言いかけたとき、ヴァハは珍しくゼノラーの言葉を遮り、真剣な眼差しで己の覚悟を淀みなく口にした。
「王子。私は王子に剣を捧げたとき、己を捨てると決心したのです。今は、王子の蜂起を成就させること――それだけが私の全てです。例え、レイア――オリビアの命が危ないとしても、それが革命の邪魔になるのでしたら、私の中で感情を切り捨てる覚悟はできております」
ヴァハの声音からは、既に覚悟を決めた者のみが持つ独特の雰囲気に彩られていた。
だが、そんなヴァハを見て、ゼノラーは
「そういうものか……だが無理をするな。オリビアもコリューンも俺が助け出してみせる」
「王子……」
ゼノラーの口調はいつもどおり、どこかそっけなく抑揚のないものだったが、その言葉から感じられる心根はヴァハの心を打つものがあった。
“こんな事ではいけないのに、私は……!”
ついさっき己の覚悟を伝えたヴァハは、まだ娘への未練がかすかに残っている自分を感じてしまって、愕然とするのだった。